今年も、もう11月中旬となり、残り少なくなりました。
そうなるといつもの事ながら、年末商戦が賑やかになります。
今朝もテレビでは、もう「忘年会」の話題で盛り上がっていました。
どこのお店も、いかにお客様を集客するかで、必死の価格競争のようです。
食べ物も飲み物も299円均一で、とても低価格で忘年会が出来る!!
なんていうお店もありました。
そんな中で、最後に紹介されたのが、「カクテルが半額!」というお店!!
どうしてかというと、そのカクテルを作るのは、
シェイカーを振りだしてまだ3ヶ月という新米のバーテンダー君でした!!
なので、その子の作ったカクテルは半額でサービスします!というのです(笑い)
私は、その新米バーテンダー君にエールを送ると共に、
かつての自分を重ねていました。
それは30年前の東京の珈琲屋での修行時代に遡ります。
当時、新宿に本店、下北沢に支店がありました。
私は、その両方に週の半分ずつ勤務していました。
下北沢は、比較的若い人が多く、学生街の喫茶店という雰囲気でした。
一方新宿は、年齢層も高く、常連の方の中には、
米子では出会えないような著名な方もいらっしゃり、少し緊張しました。
そんな中で、そのバーテンダー君のように、毎日珈琲を淹れる練習をします。
とにかく、練習をしなければ上手になれません。
野球選手が、毎日毎日投げたり、バットを振ったりするのと同じで、
「理屈」では学べませんから、とにかく毎日珈琲を淹れることが重要です。
けれど、スポーツの練習と違い、私たちのように
食べ物や飲み物を作る練習には、必ず作品が残ります。
たとえ美味しくなくとも、材料は無駄には出来ません。
私の修行した珈琲屋さんでは、自分で飲むか、
あるいはスタッフに飲んで戴くか、でした。
先輩に飲んで戴いた時は、その批評も戴けました。
本当に初めのうちは、ただ珈琲色をしたお湯・・・でした(笑い)
マスターや諸先輩方の淹れる珈琲が美味しそうに膨らむのを
気が遠くなるような思いで、羨ましく眺めたものでした。
そんなある日、新宿店で、ご常連のひとりの紳士が私に、
「僕の珈琲、淹れて下さい~」と笑顔で仰るのです。
まだ珈琲屋に入ってひと月くらいの頃だったと思います。
もちろん私は慌てて、とんでもないとご辞退しました。
けれどその老紳士は引きません。そして、
「どんどん淹れないと上手になりませんよ」と優しく、
尻込みする私の背中を押して下さいました。
困った私は、不安な面持ちで隣のマスターの顔を見上げ
助けを求めようとしましたが、そのマスターも
「せっかく、そう言って下さってるんだから、
お言葉に甘えて、飲んで戴きなさい」と促され、
緊張しまくりで、一杯の「珈琲のようなもの」を淹れさせて戴きました。
そんな、遠い記憶が、先日ふと蘇えっていました。
それが、私の拙い珈琲を初めてお金を払って飲んで下さった
記念すべき第一号の方なのです。
その方の名は、神吉拓郎さん と言いました。
かつてはマスターとラグビーをともに愉しまれたお仲間で、
当時(30年前)は、NHKの脚本家でいらした・・・と記憶していたのですが、
定かではないので、このブログを書くにあたり、ネットで検索してみました。
すると、「小説家」「俳人」「随筆家」という肩書き!!
そして、1983年に「私生活」で、第90回の直木賞を
受賞していらっしゃるという方でした!!
珈琲屋吹野がオープンしたのが1981年ですから、
直木賞を受賞されたのは、私が米子へ帰ってからのことのようです。
1928年生まれ、とあるので、私の珈琲を敢えて飲んで下さったのは
神吉さんが51歳の時です。
今思えばまだお若いのに、20代の私にはとても「大人」に見えていました。
1994年にお亡くなりになったという報は、
新聞に写真入で載っていらしたので、記憶に鮮明です。
あの時、神吉さんが私の珈琲を飲んで下さるという勇気ある行動が、
どれ程私に勇気を与えて下さったことか・・・
それからも、時々いらしては、私の珈琲を飲んで下さり、
日々の成長を舌で感じ、励まして下さいました。
今改めて、こころからお礼申し上げます。
あの時の神吉さんの優しい笑顔、忘れません。
sei
なんと好いお話でしょうか、修行時代の珈琲を頂きたい気がします。
tokki
私にも同じような経験があります。
初めてメガネを作らせていただいたお客様。
今でも鮮明にそのときのことを覚えています。
額に冷や汗をかきながらメガネの度数を決めたのです。
多くのお客様に育てていただき、そのご恩を少しだけでも返せたらと思える年齢になってきましたね。